こんにちは。
相馬一進(そうまかずゆき)です。
教養とは語彙(ごい)力である、とよく言われます。
すなわち、多くの単語を使いこなせる人ほど教養がある、
ということですね。
では、語彙力とは、具体的に何を指すのでしょうか?
私の考えでは、汎用(はんよう)的な単語ではなく、
専用的な単語をどれだけ使えるかが語彙力である、
と信じています。
たとえば、感情が強く動いたときはいつでも、
なにに対しても“ヤバい”と言うような人は
語彙力がない人と言えるでしょう。
美味しいときも“ヤバい”、不味いときも“ヤバい”。
美しいときも“ヤバい”、汚いときも“ヤバい”。
感動したときも“ヤバい”、つまらないときも“ヤバい”。
このように“ヤバい”を連発する人は教養のない人です。
その反対に、汎用的な単語で済ませられる時でも
あえて専用的な単語で会話をする人は
教養がある人です。
たとえば服に穴が開いたとして、
それを針と糸で縫うときに
どういう単語を使うでしょうか?
教養がない人は「服を直す」と言います。
一方で、教養がある人は「服を繕(つくろ)う」と言います。
この「繕う」という単語は、直すという意味では
衣服を直す文脈でしか主に使わない単語です。
こういった専門的な単語を使えることが
教養を表すのですね。
ただし。
専用的な単語を覚える余裕がない人は
あえて汎用的な単語を使うのもいいと思います。
日本に来た外国人の観光客に対して、
私が最初に教える日本語は“どうも”です。
なぜなら、“どうも”とは汎用的な単語で
多くの挨拶を“どうも”で表せるからです。
こんにちはも“どうも”、ありがとうも“どうも”。
さようならも“どうも”、すみませんも“どうも”。
逆に、日本人で“どうも”なんて使っている人がいたら、
己の教養のなさをアピールしているようなものですね。
私なら、気恥ずかしくて使えません。
もし“どうも”なんて公衆の面前で言ってしまったら
穴があったら入りたい気持ちになるでしょう。