こんにちは。
相馬一進(そうまかずゆき)です。
少し前から、私の過去の話をしています。
今日も、私の「高校」の頃の話です。
さて、私の母方の祖父は、非常に優秀な経営者でした。
7ヶ国語がペラペラで、
海外旅行の航空券が非常に高かった当時に、
よく海外に仕事で行っていました。
また、税理士とか、難しい国家資格を
いくつも持っていて、税理士事務所をはじめ、
複数のビジネスを経営していたようです。
本も何冊も書いていて、書店に行くと、
祖父の書いた本のコーナーがあったので、子供の私でも
「これは、きっと凄いことなんだろうなあ」
と思っていました。
私の母は一人っ子だったのですが、
母方の祖母(つまり母の母)からDVを受けていたのもあって、
「見捨てられ不安」が非常に強かったのです。
そして、そんな母にとっては、
祖父の存在が大きかったのです。
しかし、その祖父が急死したのです。
しかも、タイミングが悪いことに、
父と母が離婚した直後に。
「見捨てられ不安」が強かった母は、
祖父の死で、愛情のベースを完全に失ってしまい、
心理学でよく言われるとおり、自殺企図
(じさつきと:自殺をしようとすること)をし始めました。
私の故郷、新潟には、信濃川(しなのがわ)という
日本で一番長い川が流れているのですが、
その川にかけられている橋から、母は何度も飛び降りようとして、
何回も何回も、その度に通りすがりの人に止められていました。
その後、自殺を図った母が、通りすがりの人に連れられて、
なだめられながら、家まで帰ってくるのを見る度に、
本当に恥ずかしくて、逃げ出したい気持ちになりました。
また、祖父の遺産相続はありましたが、
それは、父が作った借金の返済で
全部消えてしまいました。
いや、正確に言うと、
その相続された遺産でも借金を返済しきれず、
まだ借金が残っていたのです。
そこで、私の母は、
私が高校1年生の時から働きに出始めました。
私は長男で、弟が2人いたため、
高校1年生のときから、高校を卒業するまでの間、
家事などをしていました。
よく考えると、それも成績が下がった理由の
1つかもしれません。
高校の時の家庭内の雰囲気というのは、
ありていな表現ですが、地獄絵図のような感じで、
・自殺をしようとする母を止めたり、
・母がヒステリーになって、食器やグラスを床に投げた後、
私がその割れた破片を1つ1つ片付けたり、
・あるいは、ヒステリーになって、醤油とか料理酒を
母は壁に向かってぶちまけたりするので、
それを雑巾で拭いたりと、
発狂している母と一緒に住みながら、
弟2人を学校に通わせ、私もその後で高校に行く、
という生活は、とにかく本当に辛かったです。
恥ずかしくて、今でも隠してしまいたい。
ああ、今思い出しながら書いているのですが、
当時の記憶が襲ってきて、涙が出てきてしまいました。
まだ、この記憶は、十分に癒えていないようです。
当時は、本当に家の中が惨状で、
学校の先生に助けを借りることが恥ずかしく、
どうしても出来ませんでした。
また、友達にも、両親が離婚したことは話しましたが、
ここまでの惨状になっていることは、
話せなかったのです……
高校の中にいるときは、私は惨状を隠していましたが、
通学の道とかで、1人になるときが本当に辛く、
トボトボとネガティブな表情で歩いていました。
そして、それをたまたま友人に見られて、その翌日に、
「相馬、どうして昨日、あんな暗い表情で歩いていたの?」
と聞かれたときには、本当に恥ずかしかったのです。
まあ、そんな高校生活でしたが、
なんとか3年間を過ごします。
それで、高校3年生の冬。
本当に、本当に、家にいるのが苦しかったので、
なんとか、家を出るために、大学受験をします。
「大学に受かれば、なんとか家を出れる」
そう思ったのです。
私にとって、大学に行くことは、
地獄を脱出する唯一の方法、
言わば、カンダタの『蜘蛛の糸』でした。
なんとか、精神力を振り絞って、受験をしたのです。
そして、受験後しばらく経って、
その大学受験の結果が郵送されてきました。
その結果は……
「不合格」。
私は、家を出ることができないまま、
浪人生活を送ることになります。
コメント
よくがんばってきましたね。
酷い振る舞いのあったご両親を恨んでいますか。
ご両親がいなければ、今のあなたは居ないのですし、やれば結果がだせる能力もご両親ゆずりでしょう。ココロの中でいいですから、ご両親に「ありがとう」を忘れないで欲しいです。
と、思わずコメントしてしまいました。
更なるご活躍を祈っております。